「タオ自然学」

 2022年、ようやくこの本を手にする時がきたと思った。私が、このサイトの「縁を編む」の第11章で語っているように、「二つで一つ、二つで三つ」の思考の展開の仕方を、私は大切にしている。これは、例えは稚拙であるが、簡単に言うと「正常な電波を送るには、雑音が必要である」との科学的な概念と、仏教的な概念「煩悩即菩提」の学びから得た、私なりの哲学である。その自己哲学の精査を、生きる上で、学ぶ上で、ずっと試みてきた自分がいる。その試みのなかで、私に革新的な影響を与えてくれたのが「量子論」「華厳経」の共通性である。

 「一滴の雫が大宇宙を宿し、一瞬の星のまたたきに永遠の時間が凝縮されている」

イギリスの宇宙物理学者スティーヴン・ホーキング博士は、分子や原子といったミクロの世界の構造を観察し、それをマクロの宇宙に当てはめ宇宙の構造を説明するという画期的な宇宙物理学の理論を展開しました。この発想は華厳思想の最新科学への応用と言えます。最新の科学が証明した宇宙の構造が華厳経の宇宙観とそっくりであることには驚きを禁じ得ません。華厳経は今を生きる私達にとって最新の科学書でもあるのです。

「各文電子読本・解説サイト」より

 この本の著者であるフィリッチョフ・カプラは、本書の目的を「現代物理学の概念と、東洋の哲学や宗教の基本思想との関係を明らかにすることにある」と明言している。私は、この試みに賛同する。これこそが、「二つで一つ、二つで三つ」の考え方なのである。新しい思想を創発する時には、「二つを一つにする力と、二つから第三の考えを生み出す力」を必要するのだ。これは何も、思想だけの問題ではない。マーケット理論や組織論、現代科学や映画の脚本製作、それこそ、「量子論」こそは、この哲学を証明していると考えている。もちろん、仏教も同じだ。

外見的には矛盾し、両立しがたいような概念が、じつは同一世界の異なった側面とみなされる例は、相対論の四次元の世界だけではない。(中略)原子のレベルでは、物質は粒子であり波でもある。どちらの側面を見せるかは、それは状況しだいだ。ある状況では粒子としての側面が支配的だが、べつの状況では波としてふるまう。この二面性は、光(電磁波)にもみられる。

「タオ自然学」十一 対立世界の超越

 原子の原子核にある陽子の素粒子は、実は、物質としては「ここにある」と言える発見はされていない。「ふるまい」という現象を通して、「そこにある」と考えられるという次元の物質なのである。「時間」「空間」という二次元の世界と「観察者」という次元が加わった三次元の世界での認識でしかないのである。つまりこの世界は、「ふるまい」という「現象」を認識する私たちが、その現象を理解・納得する上で、思考・数理で創りあげた世界なのである。その「観察者」は、「関与者」とも言えると著者F・カプラは語っている。「宇宙が人間に適しているのは、そうでなければ人間は宇宙を 観測 し得ないから」という論理を用いている「人間原理宇宙論」などにも関わってくる話だと思う。私は、この世界を二項対立的な世界として見るか、それとも、大調和の世界と見るかは、「観察者」であり「関与者」の理解の俎上にあると確信している。

 「見方が変われば、世界は変わる」

「対立概念はたがいに対照的(あるいは相補的)な関係にある」という古代中国思想のなかで、相補性の概念は根本的役割を演じたのである。中国の賢者はこの対立概念の相補性を「陰」と「陽」で表し、この二つのダイナミックな相互作用をあらゆる自然現象、あらゆる人間活動の本質だとみなした。

「タオ自然学」十一 対立世界の超越

 「変化の中にあらわれる象を解釈するための彖伝(易経)があり、良運と悪運を定めて決断をくだす」

竹村亜希子先生・名古屋の「易経」勉強会にて

私が、「間(あいだ)」にこだわるのもこの点にある。私は、「人間とは何」と問われれば、「人と人との「間(あいだ)」にある、と応える。人間は、その相対的な関係で生じる「ふるまい」よって存在するのだ。それは人間だけではなく、この世界を形成するすべてのものが、「時間」「空間」という「間(あいだ)」の「ふるまい」の中に存在するのだ。それを存在せしめているのは、「観察者・関与者」である、私たち「人間(じんかん)」である。

心と身体、主体と客体などの区別がない完全な融合状態を体験しない限り、華厳宗とその哲学の意味を理解できるものではない。客体ひとつひとつが、空間的にも時間的にも他の客体ひとつひとつと関連していることに気づく……。純粋な体験事実として言うなら、時間を考えない空間も、空間を考えない時間も存在しない。このふたつは相互に浸透しあっている。

「タオ自然学」文中引用「鈴木大拙」

 今、科学の世界が、仏教の世界に追いつこうとしている時代だと考えている。科学が宗教を証明する時代が来ると思っている。いつか、「易経」で言うところの「陰」と「陽」が一体となった「太極」、そして、仏教のさまざまな仏の一体である「久遠の本仏」の世界を、全人類が認識する時代は、もう少しで到来すると信じている私がいる。