「法然の編集力」

 縁があって、今年(令和4年)、「親鸞」の教えを受けている。毎週1回、zoomでの全6回のマンツーマンでの学びだ。親鸞の「教行信証」をもとにした先生のお話を、質疑応答を織り交ぜながらの講義形式で進めていく型を採っている。先生は、一般の信徒さんだと思う。病院の先生をされており、それが終わってからの勉強会である。毎回、20時開始だ。私には、その布教の仕組みが面白いと思った。まずは、オンラインでの勉強会。そして、一対一での学び。その先生が、専門家や浄土真宗の職員などではなく、一般の信徒が、在家のままで教えを伝えている、その型に興味をもった。私の考えでは、布教はマスコミュニケーションで行うのではなく、コアコミュニケーションで進めることが大事だと思っているからだ。初期のキリスト教や日本における仏教の各宗派の初期の布教のあり方は、一対一の「間(あいだ)」から始まったと考えている。そして、巨大な宗教団体になっても、確かにマス的な働きは必要だと思うが、やはり、一対一の人間関係による布教は、最も大事にすべきあり方だと信じているのだ。「マスとコア」。このバランスを、脚本・演出家の私としては突き詰めていきたいところなのだ。

 親鸞は、五木寛之氏の小説「親鸞」を読んだり、京都の西本願寺をお参りした際に購入した「教行信証」を眺めたりしながら知ってはいたが、私自身は、「親鸞」は、妻帯したり、「悪人正機とは何だ?」くらいの認識しかなかった。

 そんな「親鸞」との縁が結ばれた時、本棚にあった、松岡正剛の「法然の編集力」の本に眼が張り付いた。法然は、「親鸞」の師であるから、「親鸞」=「法然」と結びつく。だから、たくさん本があるなかで、「法然の編集力」に眼が向いたのも、これも「縁」かなと軽く思い、早速、読み返してみた。しかし、一日で一気に読み終えた時、この本を今読むのは「天の配剤」だと感じたのである。「縁とは天の配剤である」と信じている私にとっては、当たり前の感覚であるが、今回は、妙にこころに深く刻まれた思いなのである。何故なら、「法然」の編集力の見事さを前に、私自身の今後のありようを教えていただいたとの念が沸き起こったからなのだ。

 法然は、比叡山の経藏に籠り、一切経を開き見ること5遍と言われているほどの読書家であった。その法然が、行きついたのが「選択本願念仏集」である。これは、松岡正剛が語るには、「日本有数の編集的仏教論」ともいうべき書物であると紹介し、「恩着せがましく教義を説くというよりも、その『選択』と『編集』が、読む者を導いて『専修念仏』を照らし出すような構成をとっています」と、次の思考へと導いていく。「そもそも専修念仏が法然による革新的な選択だったのですが、その思想的根拠は、『念仏こそが阿弥陀仏の選択本願である』というものでした」と語り、ここに「選択」の二重化あるいは三重化していると、私たちに示唆しているのである。

 当世にひろく書を披見(ひけん)したることは、たれも覚えず。書を見るに、これはその事を栓にはいうよと、みることのありがたきことにて侍るに、われは書をとりて、一見をくわうるに、その事を釈したる書をなとみる徳の侍る也。栓はまず篇目を見て大意をとるなり。

法然上人行状絵図」巻5 「法然の編集力」引用

 すこし、編集的な話になるが、法然は、ここで「自分は本をちょっと読むだけでその解釈ができるだけの徳がある。何故、そんなことが可能かというと、篇目(へんもく)を見るだけで全体がわかるからだ」と言っている。篇目とは、すなわち章の題目のことで、「目次だけでだいたいのことが理解できる」と言っているのである。松岡正剛の唱える「目次読書法」によれば、「目次というのは著者や編集者によって一冊のコンテンツを要約再構成したもので、その本のエキスが並んでいる」、その目次をじっくり眺め、いろいろなことを想像し、その本分に一気に入っていく方法であるという。極めた編集的なのである。

 法然の「選択」とは、さまざまな価値観をスクリーニングしながらエッセンシャルにしていく過程であり、ひとつひとつがよりクリティカルになっていく方法のことなのです。こうしてあ法然は何度も「選択的相互性」を重ねていくことで、また引き算をしていくことで専修念仏に絞っていったのでした。

 法然にきっと「情報」の足し算と「本質」の引き算が同時にできる才能があったのだと思います。それが法然という人の「編集力」なのです。

 法然が「選択本願念仏集」のなかで行っているのは、一方を選び、他方を捨ててるという「選択」ではありません。すでにのべたように、さまざまな価値を導き出すために仏教的な方法を少しずつ多重に選び取りながら重ね合わせてこれを絞り、その絞った視点をもって他の価値観を読み替え、そこに思い切った断章衆取義を加えながらぐいぐいと前に進んでいくという「選択」なのです。

「法然の編集力」より

 法然も親鸞も、道元や日蓮、その他、日本の大きな宗教革命の時に生まれ出た「聖」は、既成の仏教から「選択」と「編集」をもって、世に問うた人間たちだと思う。令和の時代になり、コロナ禍やウクライナとロシアの戦争、そして、自然災害や経済問題など、現代は、仏教の「末法思想」の時代だと私は考えている。しかし、悲観はしていない。その「末法時代」に、多くの法然も親鸞も、道元や日蓮という「聖」が沸き起こってきたからである。そして、新たな生き方の価値観を私たちに提示してくれたからである。

 「法華経」では、「地湧の菩薩」の登場が説かれている。その地湧の菩薩たちは、大菩薩として多くの眷属を従えているのものから、たった一人で、その働きをする菩薩たちが、地から湧き出してくるシーンとして登場してくる。法華経では、「久遠の本仏」が顕かになる前の、イベント演出風で言えば、大転換の場面である。

 私は信じている。法華経で説かれている「地湧の菩薩」が顕れることを。それも、地面を割って出てくることを。その「地湧の菩薩」の1人になることを、私は誓っている。         

                                  12月23日 21日の冬至「一陽来復」を過ぎて