私は、森政弘先生を同士だと、今年(令和5年11月)読んで、勝手に思っている。過去、何回か取材先ではでお会いしたことがあるが、直にお話をしたことはない。遠い憧れの人であったのだが、このご著書を読ませていただき、冒頭の「三性(さんしょう)理」の解説が、眼と通して、思考に染み込み、そして、こころを震わせた今は、同士扱い、いや、導師と呼ばせていただきたい気分なのだ。
森先生は、知る人ぞ知る、日本のロボット工学の先駆的第一人者である。よくTV中継や番組でも紹介されている「ロボットコンテスト」、通称、「ロボコン」の創始者であり、仏教および禅研究家としても有名である。
そこが好きなのだ。憧れに価するポイントは、ロボット博士でありながら仏教・禅の研究家であること。僕にとってはそういう自分に強烈になりたいと想わせるほどの憧れなのである。ロボットと仏教という相反する、ある意味、二項対立的な思想が融合してひとつになり、そして、その融合から第3の思考や方法を創発していく。ロボットから見た仏教、仏教から見たロボット。両方の観点からひとつに行き着くメッセージを発信していく。それが、私の憧れの生き方なのだ。
森先生の「三性の理」の解説は良く解かりやすく、理にも情的にも納得いくものだ。地域性や時代性、人間性から考えても、すべてに貫かれた真実だと思う。
「三性の理」を詳しく知りたければ、この本を読んでいただき、仏教の本を読んでいただいて智慧を深めていただければと思うが、仏教でいうところの奥深い善悪論のことである。三性とは「善・無記・悪」の三つをさしている。
森先生は、「三性の理」を説くにあたり、ご自身の体験話を分けてくれている。この「体験を分かち合う」という行為も私が憧れる生き方だ。
ある時、天下の本多技研の創立者で初代者だった、本田宗一郎さんから筆者にこのような質問を受けた。
走る→アクセル 止める→ブレーキ これでよいか?というのであった
筆者はこのクイズを受け、「これでよろしい」と答えたのだが、叱られてしまった。本田さんは「君な、アクセルで走れるなら、あそこに停めてある私の車のブレーキを外してやるから、それに乗って走ってこい」と言われてた。-「あっ、そうか! なるほど、走るにもブレーキが要る!」。ブレーキなしでは危なくて走れない。筆者は完全にやり込められてしまったのだ。
続いて、「それなら止めるのはどうだ?」と問われたので、よい、こういう次元の高いことを言われる方には逆説で行こうと、とっさに思い、「本田さん、止めるにはアクセルです」と答えたところ、OKが出た。ただしその時、筆者は本当の理由は不明なまま、やみくもに逆説的に答えてパスしただけのことで、果たして止めるのにはどうしてアクセルが必要なのかは、納得できないままだった。
その後、森先生は、車を車庫入れする時に、ふっと、気がつくのである。「アクセルなしでは、きちんと止めることは不可能」だと。このアクセルとブレーキの問答は、自社の従業員に「一つ」を分からせようとした本田社長の苦心のアイデアであったのである。説明されると、「そうだよなっ」て納得するが、こうした問答を考えるところに、本田社長が本当の意味での「一つ」が分っていたことの証があると感じる。
こうした話を進めながら、森先生は、「メスとドス」の例えを通して、仏教の「善・無記・悪」に辿り着く。ここもまた、憎いくらいの進め方である。はじめから、「メスとドス」の話をすれば分かるようだが、その理解の深さと広がりが違う。事を本当に知っているということは、その本論だけではなく、話す相手が、そこに行き着くまでの道のり、ストリー展開が上手いということである。物語構成や展開が上手いのである。物語が、いきなりフィナーレ(結末)のシーンになっては、その理解や感動が浅いものになってしまうに違いない。いや、つまらない。
「メスとドス」の例えは簡単である。人を切ることができるメスは、病気の手術で使えばメスとなり人を救い、人との争いに使えばドスとなって人を殺すことになる。つまり、切るということは同じをする刃物は、使う人の考え、使い方によっては、「メスにもなるしドスにもなる」のである。「三性の理」の「善」で考えれば手術の道具メスとなり、「悪」は、人殺しのドスになるということである。切るということ自体は「無記」、つまり、メスでもドスでも同じ機能をもっているが、使う人の使用目的や使い方によっては、「善」と「悪」どちらにでもなってしまうということである。
この考え方は、人間関係をはじめ、さまざまな出来事でも、そして、今後の生成AIなどのついても同じであると考えている。考え方は何万とあるだろう。しかし、いくら突き詰めて答えを出そうとしても、結局、人間の受け取り方、意味づけ方で、すべてが答えの結果が決まるのである。だからこそ、知識を得る前に、その受け取り方や意味づけしてします人間の思考やこころを育成しなければいけないというのが仏教の哲学である。この「退歩に学べ」も同じである。つまり、物事を判断する時に、「一歩さがる」ということの大切さを教えてくれていると考えている。そろそろ人類は、前に行くことだけの生き方から、「一歩さがる」生き方とは何か?真剣に考える時代に来ていると思う。「答えは無い。それでも有る」という思考に落ち着いても良いのではないだろうか。「無いなら見つければ良いし、無ければないでいいじゃないか」。すべてを分かろうなんて無理なのだと思う。自分が得た答えが全てという思考も、もう、手離そう。実は、自分の考え方は自分しか分からないし、皆が分かるというのも幻想だと思う。「私は、こう考えています」。それでいいじゃないですか。皆に押し付けなくても、共感する人は、勝手に寄ってきますよ。「桃李もの言わざれども下自ら蹊(みち)を成す」で良いと思うのだ。
私は、この「biotopeone」のサイトを立ち上げた時、私のひとつのメッセージとして、「二つで一つ 二つで三つ」というメッセ―ジを発信した。これは、私が、さまざな経験を通して得た生き方のポイントを、ひとつのスローガン的に創発した言葉だ。ここから、「智慧と慈悲の結集・編集・発信」が導きだされたのだ。森先生を導師として敬う原点がここにある。しかし、人は、どうも自分にとって都合の良いことに関して、思考・判断が導かれるようだ。だけど、それがあるからこそ成長・前進がある。「どうする私」。