「光圀伝」冲方丁

 二度も読んでしまった。小難しい本ばかり読んでいたせいか、急に小説ものを渇望していた。そして、手にしたのが冲方丁さんの「光圀伝」である。一度読んだ本だが、記憶が曖昧であった。しかし、読み進むうちに、何故、自分がこの物語を欲しているのか分かった。

 この本は、江戸時代の水戸藩の次男光國が、次男でありながら世子(跡継ぎ)としての座を与えられ「なぜ、俺なんだ」との苦悩する幼き頃から、皇家の血を引く泰姫に仕えて京からきた侍女左近の膝をまくらにして、安らかに命を終えるまでの一代記である。もちろん、小説ではあるから、そのつもりで読んではいるが、冲方さんの史書に基づく物語の運びと、登場人物の個性と共に一瞬一瞬の心の動きの丁寧な描き方が、物語を事実としてしまうほどの見事さなのである。この見事さがこの本を再度手にした理由のひとつである。

 私の若いころの時代で、毎週月曜日の午後8時から始まるTVドラマである「水戸黄門」は、1964年(昭和44年)から42年間続いた国民的時代劇であった。通算回数1227話で平均視聴率は22・2%、最高視聴率は1927年2月5日放送の43・7%とのことである。まぁ、当時の月曜日夜8時には、国民の大半がTVの前に座り、「水戸黄門」を観ていたことになる。この番組のスポンサーは、当時の松下幸之助が一代で築き上げた松下電機産業株式である。今は「パナソニック」というが、当時は、「ナショナル」というブランド名だ。それも、一社のみのスポンサーである。水戸黄門のお付きである助さん格さんが、「印籠」を片手に「この方をどなたと心得る。恐れ多くも先の副将軍、水戸光圀公なるぞ」と一括すると、それまで敵対して争っていた悪どもが、「ははぁ~!」と言って触れ伏すのである。その決まり文句がでると事件は一件落着。その画面とTVコマーシャルの「ナショナル」がダブって観えて、「このスポンサーをどなたと心得る。世界的家電メイカー、ナショナルさまぞ!ずがたかい、頭が高い。ひかえおろうッ!」と言われている気がしたものである。しかし、何の嫌悪感もなかったのだから不思議だと思う。

 「水戸黄門」とは、水戸藩の藩主である光圀のことであるが、「黄門」とは、帝から賜る位「中納言」の別称である。それを知らなかった頃は、「黄門さま」と聞いて、変なことを考えたものである。また、光圀の名も、隠居後の名前として考えた名前である。それまでは、光國であり、或の字が惑いに、そして、乱に通じるとして「光圀」したという。そして、水戸黄門と言えば、諸国漫遊というように、日本中を旅し、悪者どもを成敗するという物語になっているが、当時は、そんなことができる訳がない。水戸藩は、徳川家を守るために創られた御三家(紀伊徳川家・尾張徳川家・水戸徳川家)の1つである。その藩主は、江戸詰めが基本であり、地元の水戸藩からのの参勤交代などない身分なのである。江戸城に登城するにしても決まった日でなければ、そのつど江戸城の大老たちにお伺いしなければいけないのだ。だから、隣の藩の領地にいくなど、その役割や身分から考えれば、絶対無理なのである。じゃ、何故、諸国漫遊や悪者成敗のイメージが創られたのか。そのヒントは、私は、光圀が生涯をかけて成し得た事業が関係していると考えている。

 水戸光圀といえば、その事業としては数々あるが、その中でも私は、日本国の史書である「大日本史」をまとめたことを第一に挙げたい。国史の編纂が第1段階を終えた時、その作業に携わった者を前に、「これで終わりではないぞ。史書とは常に草稿であり続けるもの。しかも、いまだ我らの眼にしておらぬ資料が、日本全国に眠っておる」といって、皇家から日本中の藩が持つ史書を蒐集することを命じるのである。それは、多くの困難を意味している。各藩が、徳川御三家の水戸藩に対して、簡単に保存している史書を渡すわけがない。ましてや、その藩の歴史や領主の裏表まで調べ上げるのである。その内容によっては、「改易」つまり藩の取り潰しにあったら大変なことになるとは、藩主だけではない誰でもが考えることだ。しかし、光圀は、それも承知で命をくだすのである。「それがなくては、史書にはならない」との姿勢は一貫として崩さないのである。「何かあったら、私の名をだせ。水戸黄門さまの命(めい)である」と。これが、印籠登場物語の背景だと私は考えているのだ。ある組織のアーカイブスを手掛けた私としては、トップの資料だけ集めるのではなく、包括している組織やそこに所属している市井の人々の記録もアーカイブすることによって本当の史書(アーカイブズ)ができあがると信じて、取り組んできた経験がある。だから、この光圀の史書編纂に取り組む姿勢に感動したのである。「その通り」。その想いを今一度味わいたいのが、あらためて手にした理由の2つめである。

 3つ目の理由は?。それは、水戸光圀がなくなってから167年後に行われた徳川幕府の政権を朝廷に奉還した「大政奉還」ができたことに繋がる。この大政奉還を成し得た、時の将軍である徳川慶喜は水戸藩主の子供だったのである。このことが、私のここころに大きな感慨を与えるのである。

 徳川家康が樹立した徳川幕府は、天皇家から「征夷大将軍」を賜って誕生したものである。その家康の子供達が徳川御三家のとなるのであるが、朱子学を重んじていた家康は、この御三家をただ単に、徳川家の将軍の跡継ぎができない場合の補充のために創家したのではなく、あくまでも天皇家を守るためにという願いもあったと私は考えている。徳川家康の願いであった「戦のない平和の国づくり」が叶った場合は、「征夷大将軍」を天皇家に奉還することが「義」である。この考え方には、朱子学が大きな影響を与えている。朱子学が最も大事にすることは、簡単に言えば「考」である。そして、その最大の孝行は誰にすべきか?。それは親である。では、日本の親はだれか?。それは天皇であるという考えである。水戸光圀は、史書づくりは明治の時代までその作業は続けられるが、最初の26冊が完成した際に、光圀は「皇統を明らかにすることは、日本の為政者の大義を明らかにする」という考えをもっており、天皇家こそ日本の祖であり、その解明が最重要事だと述べている。その思いは、第9代水戸藩主水戸斉昭が開設した藩校弘道館(こうどうかん)に引き継がれる。その斉昭は、大政奉還を成し得た徳川慶喜の父である。この経緯については、井沢元彦さんの「逆説の日本史16江戸名君篇に詳しく書かれている。その「逆説の日本史」では、幕末から明治維新の姿が何冊にもわたって描かれている。私の日本史関係の愛読書だ。

 著者である冲方丁さんも、「はるかのち、徳川幕府が衰亡を迎える世で、水戸家の血を引く最後の将軍が、どのような歴史的役目を果たすのか」と書いている。そして、最後にこの言葉を残している。

 「史書は人に何を与えてくれるのか? その問いに対する答えは、いつの世も変わらず、同じである。突き詰めれば史書が人に与えるものは、ただ一つしかない。それは、歴史の後にいったい何がくるのか、と問うてみれば、おのずとわかることだ。人の生である。連綿と続く、我々一人一人の、人生である」

 私の人生は、連綿と続くのである。そして、皆の人生も…。一人ひとりの人生は、天の史書に記録されていくのである。過去も現在も、そして未来の人々の人生も。その後にいったい何がくるのか、今、問うてみたい。そのことが、私に、この本を再度手にさせた本当の理由である。