「居るのはつらいよ」

 このタイトルだけで判断すると、この本は、青春物語かおじさんの悲哀を綴った小説ではと思ってしまう。しかし、サブタイトル「ケアとセラピーについての覚書」と続くと、「?」となってしまう。この本は、正真正銘の「臨床心理学」をテーマにした本なのである。出版社は「㈱医学書院」。その出版社が刊行するシリーズ「ケアをひらく」の企画は、毎日出版文化賞を受賞しているのだ。シリーズを紹介したページをめくり、タイトルに眼をやると、一冊だけ読んだ本があった。国分功一郎さんの「中動態の世界:意志と責任の考古学」である。薦められて手にしたが、ハッキリ言って、私の頭では難解すぎて読むのを途中で止めてしまった苦い思い出となってしまったのだ。

 著者は、京都大学大学院の教育研究科の博士課程終了後、精神科クリニックの勤務を経て、現在、カンセリングルームを開業している東畑開人(とうはた かいと)さん。である。その紹介文には、臨床心理学が専門で、関心は精神分析・医療人類学と記されている。何かしら、「中動態の世界」と同じ思い出になるかと思ったが、何と、「うん、うん」とうなずきながら一気に読んでしまった自分が「居た」。

 本の内容は、著者の東畑さんが、精神科クリニックでの経験を基にしたストーリーである。そこで出会う人々との出来事が、きめ細かいこころの動きとして描写されていて、それが、その中に自分の「居場所」があるような不思議な感覚が沸き起こしていたのである。とにかく、その描写が面白い。

 大感動のスぺクタル学術書!「居る」に戸惑い、「居る」を支え、「居る」に傷つけれられた若き心理士、魂の叫び!京大出のハカセは悪戦苦闘の職探しの末、沖縄の精神科デイケア施設に職を得た。勇躍飛び込んだそこは、「ただ、居る、だけ」が敷きつめられた不思議の国だった。この本は、どういう選考基準か、第19回「大佛次郎論壇賞」を受賞しているのである。何が「学術書」と「大佛次郎」が結びつけたのか、その問いは、私の不思議リストに入るには十分な理由だった。誰か、教えて欲しいと思う。

 「いる」ってなんだろう?居場所ってなんなのだろう?(中略)

「居場所」を古い日本語では「ゐどころ」と言ったらしい。「虫の居所が悪い」の「ゐどころ」だ。おもしろいのは、この「ゐどころ」の「ゐど」には「座っている」という意味があり、さらには「尻」という意味があったことだ。(中略)居場所とは「尻の置き場所」なのだ。(中略)「とりあえず、座って居られる場所」のことだからだ。こう言い換えてもいいかもしれない。居場所とは尻をあずけられる場所だ。尻とは、自分には見えなくて、コントロールするのが難しくて、カンチョーされたら悶絶してしまうような弱い場所だ。僕らの体の弱点だ。そういう弱みを不安にならずに委ねていられる場所が居場所なのではないか。そう、無防備に尻をあずけても、カンチョーされない、傷つけられない。そういう安心感によって、僕らの「いる」は可能になる。

(中略)

 僕らは何かを「する」ことで、偽りの自己をつくり出し、なんとかそこに「いる」ことを可能にしようとする。生き延びようとする。僕らは誰かにずっぽりと頼っているとき、依存しているときには、「本当の自己」でいられて、それができなくなると「偽りの自己」をつくり出す。だから「いる」がつらくなると、「する」を始める。逆に言うならば、「いる」ためには、その場に慣れ、そこにいる人たちに安心して、身を委ねられないといけない。

「居るのはつらいよ」

 東畑さんは、ここから、身を委ねる。頼る。依存へと言葉を変換していき、「依存は洞窟のようで、うねうねと複雑に絡まり合って、分岐しながら、どこかへとつながっていく。もちろんこの時の僕はまだそんなことは知らない」とデアケアでの物語を展開していく。その展開がまた、ドラマ以上のドキメンタリーなのである。人間の個性は「物語」のために存在するのではと考えてしまうほどに、なのだ。

 人間は「いる」場所を探す生命なのかもしれない。そこに人間として物語がある、と、つくづく想わせる「本」だと感じた。