ある日、北海道に住む「障害児も地域の普通の学校へ・道北ネット」の中心人物の平田さんからメッセンジャーが届いた。そうしたら、多くの繋がりのある人たちから、その日のうちに、平田さんから届いたメッセージと同じ内容が回ってきた。「さすが、平田さん」と、私は、嬉しくなった。
そのメッセージとは、平田さんの自閉症の息子さんを取材した特集が、TBS報道特集予告編で放映されるという内容だった。
インクルーシブ教育は、日本でも昔から言われている。しかし、日本では、本当に議論されているの?と思う。こんな話で誤解を招くかもしれないが、昔、日本では、そうした子供たちは、神の使いとして崇められた時代があった。その思想は現代でもインドで生きている。
私が、その思想に関心を持ったのは。ある学術研究所の講演会の記事を読んだ時だ。それは、日本ではお馴染みの「七福神」の話だった。福禄寿は、頭が長い神として描かれている。これは、現代で言うと、「水頭症」を表しているという説がある。川の上流の村で、その「水頭症」の子供が生まれた。村では、不吉だと言って、子供を小さな葦の船に乗せて川に流してしまう。何故か、しかし、川下の村では、その子を救い上げ、大事に育てたという。二つの村は、その後、どうなったか?
子供を流した村は滅び、子供を育ては村は、栄えたという。
私の姿勢の基本は、ここに原点がある。
いくつもの障がいを持つ子供さんおの親のグループに見てきた。さまざまな意見や望む将来の違いで苦しみ、せっかく集まっても、不仲になる場合もある。つまり、グループとしての組織活動の在り方の議論が中心となって、本来の目的や願いを見失ってしますことが多く見受けられるからだ。皆、子供のために、なのに。でも、私は、そこに落とし穴があると考えている。確かに、障がいを持つ子供さんのためには、大前提であろう。しかし、その子を持つ親のために、私のために、でも良いのではないだろうかと思う。「誰か、私のことを分かって。私は苦しいのです。ふっ,と、この子がいなければ…。と思ってしまう自分がいるんです」。私たちや社会は、障がいを持つ親に、何かしらの罪の償いを求めていないだろうか?。その眼が、考えが、その親を苦しめるのだと思う。だけど、親には、それを口にする場所がない。家庭の中でもだ。何を言っても許される場所が欲しいのだと思う。
ある「ダウン症」の子を持つ親が参加するグループの代表に話を聞いたことが忘れられない。
そのお母さんであるKさんは、ある意味でのお金持ちの家の長男に嫁いだ。好きな人との結婚である。そして、子供を産んだ。その子は、ダウン症だった。お母さんは、「申し訳ない」との気持ちで、自分を責めたのである。「なんで?」自分の結婚までも呪った。孫が生まれたお祝いにと、義父は、親族が集まる宴を開いた。「なんで、私の家にダウン症の子が生まれるの?」「やっぱい、Kさんの血?」という親族の声を聞いているお母さんは、身の置き場所がない。
義父は、宴を前に親族を前に、こう話す。「私は、嫁に、こころからお礼を言いたい」。集まった親族は「?」。義父は、言葉をつなげる。「ダウン症が生まれる確率は、1000人に1人だ。だから、この家の親族で、次にダウン症が生まれるのは、今後、子供が1000人生まれた後のことだ」。何を言ってるんだろう。誰もが、その説明の理不尽さに理解がついていかなかったという。義父は、言葉を続ける。「嫁は、この家の因縁を一身に背負ってくれた。いや、世界中の親の苦労を一身に引き受けてくれたのだ。だから、私は、嫁に感謝したい」。昔の考え方かもしれない。しかし、Kさんは、こころから泣いたという。義父も、孫のダウン症に苦しんだと思う。それを乗り越えて、障がいの子を産んだ嫁を責めるわけではなく、親族を前に嫁に感謝すると言ったのである。その姿は、Kさんの「申し訳ない」という自責の念を解きほぐしたのではないだろうか。
義父は、言葉をつなぐ。「みんなも感謝するように。この子は、わが家の宝だ」
平田さんの、自閉症の子供を育てる姿に、私は、「感謝のこころ」が見えてしかたがない。