司馬遼太郎の歴史小説「峠」の世界だ。北越戊辰戦争の最大の激戦地長岡藩で、あの時代、日本の未来と世界を見据えて行動した人物が、河井継之助である。是非、小説「峠」を読むことを薦める。
写真は、新潟県小千谷にある「慈眼寺」である。10月後半、この地に足を運んだ。
継之助は、封建社会の古びた秩序を一掃し、人心の刷新を図った。夢に描いたのは新鋭な国家構想ー他力に頼らず、冒されず、己の力で生きていく「武装中立国」の実現だった。
編集・発行 長岡市観光企画課 「戊辰・河井継之助 ゆかりの地 ガイドブック」より
しかし、その願いむなしく、新政府軍との戦いに巻き込まれていく。その最後の望みをかけて、新政府軍との会談に臨んだ場所が、その慈眼寺である。今も、河井継之助と新政府軍岩村精一郎が会談した場所が現存している。
継之助は非戦思想を訴え、また、和睦に向けた幕軍説得のための猶予を願い出る。しかし、岩村が得意の舌鋒で、倒幕の理由を問いただし、憤然とした態度で、その願いを退けてその場を立ち去るのである。一方的な戦線布告だ。その時の継之助の想いは、どんなであったろうかと思うと、私は、胸を痛めることになる。若干、24歳の若者に、礼を尽くした対応をしたのに、岩村は、無礼な態度をとったのである。会談後、継之助が昼食をとった場所に向かった。今も残る、その建物を前にして、「どんな想いで昼食をたべたのであろう」と思うと、また、胸の痛みを感じた。
こうして、長岡の地は戦火で壊滅状態となってしまう。こうした経緯は、長岡の人々の、継之助への評価を二分してしまう。北越戊辰戦争で亡くなった継之助の墓に鞭打つ人もいた。そして、あの時代の英雄として称える人もいたのである。墓は移されていく。
どうして、時代の先を読み取れる人は、こうした状況になるのだろうかと考えてしまう。今、ひとつだけ分かることがある。時代の先を見れる人と、過去しか見れない人では、見える世界が違うということである。見える世界が違うということがリーダーの条件であると思うのだ。河井継之助は、間違いなく、あの時代のリーダーだったのである。