「失敗の本質」日本軍の組織論的研究

 何故、日本は太平洋戦争に負けたのか。映画や小説等を通しての史実を知るごとに、私は、その怒りを禁じられなかった思いがある。ましてや、近年の自衛権を中心とした国防論の推移をみると、何か、違うのではないか、との社会に対しての問いが頭をもたげてくる。右傾化を声高に語る人々の皇統を中心とした日本の神の国的な発言や中国・北朝鮮脅威論を聴くと、「それは解かるが、でも、その軍司令部上官の愚昧な能力によって多くの国民の命が無残に捨てられた事実をどう捉えるのだ」と、私は問いたくなる。

 昭和14年、満州国の関東軍とソ連・外モンゴルとの国境線係争地で戦闘が起き、日本が惨敗した「ノモンハン事件」

当時の関東軍の一師団に対する検閲後の講評は、「統率訓練は外面の粉飾を事として内容を充実せず、上下徒に巧言令色に流れて、実践即応の準備に欠く、その戦力は支那軍にも劣るものあり」というものであった。また、関東軍の作戦演習では、まったく勝ち目のないような戦況になっても、日本軍のみが持つとされる精神力と統師指揮能力の優越といった無形的戦力によって勝利を得るという、いわば神憑的な指導で終わることがつねであった。

「失敗の本質」日本軍の組織論的研究 中公文庫

  最初にとりあげた「ノモンハン事件」を通して、失敗の本質の核心をついていると思われる。山本七平著「空気の研究」で述べているように、簡単な言葉で言えば「言ったことは実現する」といった精神論を根本とした「言霊思想」が日本人の精神思考を創りあげたと考えている。これは危ない。当てはまることはあるにしても、全てがそうではないし、状況によっては、完全なミスリードになる場合もあるはずだ。その違いを判断し、わきまえる能力がない人間がいることは事実だと思う。自分の努力・精進を無視して、「言ったことは実現する」と、宗教のお題目のように唱えているだけで本当に何かが変わるのだと信じてしまう所に大きな勘違いがあると思っている。

 昔、自由大学で参加するセミナーの冒頭、創始者の黒崎輝男さんからの、今でも私の痛い言葉として残っている話がある。黒崎さんは、「今は変化の時代であるが、その変化について来れない人達や組織がある。それは宗教を信じる人や組織だ」と、自由大学の哲学を述べる際に、その思想とは真逆の例えとして話をしているのだ。当時、私は、宗教を信じ、その団体に所属し、それを背景にさまざまな活動をしていた。だから、反発を感じていた。しかし、「変化についてこれない、自由になれない」との指摘に、「それもあるな」との感想が頭に残っていたのだ。

 私が所属していた宗教団体は仏教の法華経に帰依している。その仏教の教えである「諸行無常」「諸法無我」そして「一切皆苦・涅槃寂静」は、仏教の根本思想・哲学である。「諸行無常」とは、すべては変化すること。「諸法無我」は、すべては関係しあっている。その縁起の法則から外れるものはこの世に存在しない。「諸行無常」「諸法無我」の二大真理を踏まえた生き方が出来るか出来ないかで、「一切皆苦」か「涅槃寂静」になるという考え方である。

 宗教にとって信じることは大切な要因である。「信じる者は救われる」。確かにそうだと思う。だけど、私は「信じる者も、信じないものも救われる」といった世界で生きていきたいと願っている。信じることも大切だが、たまには、疑問をもって自分自身や信じる宗教、その他さまざまな事象に「問い」を持つことが人間としての生き方の大事な姿勢だと感じているのだ。簡単に言えば「問い」こそが大事だと思っている。「問うためにこの世に生まれて来た」と、宗教が説くべきだとも考えている。信じるためには問いこそが前提であり、「まず、自分自身に問いなさい。そして、自分が信じたものに従って生きていきなさい。そして、その中で、もし、また問いが生まれたら、自分自身に問いなさい。そして、信じられるものを見つけなさい」。法を説かれたお釈迦様の最後の言葉は「自灯明・法灯明」であった。「自分自身を拠り所とし、そして、法(真理)を拠り所としなさい」との教えだ。その教えの後に「怠らず務めるがよい」との最後の言葉を語って、その生涯を終えたのである。私は、この「自灯明・法灯明」こそが、人間の生き方として最高の哲学であると思っている。

 「すべては変化する。すべては関係しあっている。そうした世の中で生きていくためには、自分を拠り所とし、真理を拠り所にしなさい」。

 ところが、今は、どうであろうか?自分の考えや生き方は、人や社会を拠り所にしているのではないだろうか。確かに、この世に住む限りは、1人では生きられない。「いや、自分ひとりで生きている」と言っている人がいるが、「あなたが生きるために必要な空気は誰がつくっているの」「あなた、携帯電話もってる?その電話が通じるためにどれだけの人が働いているか知っている?」。キリが無い。結論は、「誰でもが、何かによって生きている」。仏教で説くところの「諸法無我」の世界の一端であることを示している。そう、「縁によって生かされている」のだ。だから、「感謝しなさい」「周りに合わせなさい」「自分勝手なことはいてはいけません」という定義づけになり、いつの間にか、人を拠り所に生きることになってしまう自分がいることに気づいて欲しいだけなのである。その位置に立って「問い」を立てることに意義を感じているのだ。「問い」は、二項対立的な一方的な判断になる際に、仏教で説くところの「中道」に立ち位置を修正するために必要ことなのだ。本田宗一郎の有名な、「車を運転するには、ブレ―キとアクセル、どちらが必要だ」との問いに当ると思う。うっかり、運転と言う言葉にひっかかって「アクセル」と答えそうになるが、冷静に考えれば、ブレーキがあるからアクセルを踏めるのであって、答えは両方必要だということになる。その両方のバランスの比率が、その時々の状況によって変化するだけで、極端に一方だけに偏ると、危うい状態になるはずだ。

 私は、「空気を読みなさい」「相手の立場に立ちなさい」という思考に反対しているわけではないのだ。それは、あくまでも「全てのなかの一つの考え方」なのだということを言っているだけだ。

 これを忘れてしまってはいけないということを、黒崎さんは教えてくれたのだと、今は思っている。

 どうも、本を読んで感じた、どうしようもない憤りを収めようとして、私の思考が妙な方向にいったようだ。こうしたことは珍しいと思うし、人に読んでもらう内容ではないと自分では思っていても、どうも、感情にまかせて描きつらないと落ち着かないのだから仕方がない。そんな状態に読む人をさせてしまう本だと思う。

  

 「ノモンハン事件」の敗戦から、「ミッドウェー作戦」「ガダルカナル作戦」「インパール作戦」「レイテ海戦」、そして最後は「沖縄戦」敗戦の分析。

 第2章では「失敗の本質ー戦略・組織における日本軍の失敗の分析」。

 第3章では、「失敗の教訓―日本軍の失敗の本質と今日的課題」と続く。

 日本には日本独自の「失敗の本質」があるに違いないと思う。それが、日本軍だけにではなく、日本のあらゆる空間に、あたりまえのように浸透していると考えている。家庭にも学校にも、そして職場にも。人が集まるありとあらゆる組織空間で生き続けてているのだと考えているのだ。

 この本には続きがある。「失敗の本質」ー戦場リーダーシップ篇ーだ。それを読み終わった時、あらためて、この投稿に手を加えたいと思う。何を書くか、今から楽しみだ。私にとって、こんな本も稀だ。「失敗の本質」は、私のテーマにもなりそうだ。