「日本数寄」松岡正剛

 松岡正剛氏の本は、かなり読んでいると思ったが、ある時、Web検索で眼にすることが出来た。しかし、松岡正剛氏の本のタイトルには、「日本」が多すぎる。だが、私は、前に読んだ本との違いも確かめず、購入をクリックした。

手にして良かった。2000年が初版である。

 日本を複合的に語らせたら、松岡正剛氏の独壇場である。タイトルと同じく、内容が類似する本は幾つもあるが、この本には、松岡正剛氏の日本数寄(すき)の原郷があるように思われる。私は、「そうか、この話は、そこに繋がるのか」と、何度もうなずいて読んだ。これからの出張の際の移動中に読もうと思ったが、それは、叶わなかった。

 読み終わった時には、いくつもの手稿が出来上がっていた。今の自分のこころに軽い痛みを与えてくれる考えである。

 蔦屋重三郎はネットワーカーである。江戸のネットワーカーである。

私が考えるネットワーカーは、やたらに人脈を広げたり人脈に頼っている者のことではなく、曖昧な領域や曖昧な動向に敏感な人たちのこと、別の言葉でいえば「近さ」に勇気をはらった人々である。私は遠くへ旅する者より、近くに冒険する者にひどく愛着がある。

ネットワーカーは縁側をつなぐ。縁側とは内でも外でもない領界をいう。

だから、どんな縁側がそこにたちあらわれているかということがネットワーカーの条件になる。だから、ネットワーカーがどこにいるかといえば、それはつねに「あいだに」にいる。また、「近さ」にいる。

このようなネットワーカーの本質にはフラジリティがひそんでいる。あやうさである。

ネットワーカーは自分の弱さを知っている。なぜなら、ネットワーカーの活動は情報を交換する場面をつくりだすことによって広く知られていくのだが、もっとも情報の本質というものは「弱さ」や「欠如」の方にむかって流れるものだからだ。

これを「情報のヴァルネラビティ」というふうにみたらよいかとおもう。

「日本数寄」320P

 装丁に書かれた文字が、何故か,良寛の書に見えるのだから不思議だ。