令和4年5月5日、知人の”発”で起こした「子供まつり」イベントのお手伝いで、東京に足をのばした。お手伝いと言っても、前日乗り込みの当日対応で、大したことはできなかったが、私のこころは晴れ晴れだった。
こうしたイベントは、この場所で行うのは初めてのことなのである。管理が厳しく、何をするにしても、規則との格闘である。私の経験でも、何かイベントを起こす時に、眼の前に立ちはだかるのは、規則という管理部門の言葉である。
「できません」。しかし、そこは頭の使いようで、「できません」は、新しいものを生み出すチャンスだと、思いこむ。「そうか、もしかして、俺が最初になるかもしれない」と、思いっきり、その「初めて」という称号から紡ぎだされる物語に酔いしれるのだ。「初めて」。なんて魅力のあるワードだろう。
当日、私は、主催者代表として、こう語った。「今日は、皆さんのご協力で開催することができました。ありがとうございます。私は、代表者として、皆さんに恩返しする物は何もありません。しかし、皆さんに、たったひとつだけプレゼントできる物があります。何だと想います?」と、問いかけました。
皆は、笑うだけの反応である。
私は、それは、「『初めて』、ということです。皆さんは、今後、何十年たっても、この初めてという経験をしたことを自慢できます。だって、次にやる人はには、自慢できないことですから」と、話しかけました。
「この初めてという体験を、何時まで経っても、笑顔で自慢したくありませんか?。そのために、今日は、来場者にも他のスタッフの方にも、明るく・やさしく・温かい挨拶をしてください」と呼びかけました。
突然、あいさつを振られた割には、グットな挨拶だと私は思った。このプロジェクトが始まった時から、頭でイメージしてきて、自分を鼓舞してきたフレーズが、この瞬間に生きたのだ。
「初めて」。苦労も喜びも、その瞬間すべてが、自分が生きてきて初めてのことである。過去の苦労も喜びも、過去の話だ。だから、自分は赤ちゃん。無理して粋がることはない。赤ちゃんのように、興味を示して、かぶりついて、嫌だったらポイ捨てにすればよい。と、自分のこころのなかにある幼児性のアバターをみつめて、今日も大人になっていく私だ。
この日、「こどもの日」にふさわしい青空が、私の眼の前にあった。