はじめの「物語」が始まる。
映像製作に携わっていた私は、20代の頃、近代映画協会の憧れの新藤兼人映画監督を招いての講演会を企画したことがありました。日本大学芸術学部映画学科脚本コースで学んでいた私にとって、映画「裸の島」や「こころ」の脚本·監督をした新藤監督のお話は、脳にもこころにも刺激を与えてくれたのです。
「誰にでも1本は書ける」
「人が人生で経験することは、その人しか経験できないのだから、その経験を書けば、1本の脚本が誰でも書ける」というお話でした。この考えは、私の映像脚本という考え方と自分の人生という脚本に、ず~と影響を与えてきました。
「私しか書けない人生の脚本」
人生の最終章を前に、私は、もうひとひねり人生の物語の「伏線」を張っておきたいと願っています。
それが、これから展開する「Biotope One」の物語です。
旅立ち Departure
第1章
「私って、何?」
「自分の一生は?」と、自分自身に問うた時、真っ先に浮かぶ言葉が、「出会い」です。そして、「自分って何?」と、自分のこころに訊いてみたら、その答えは、「なんだろう?」という曖昧な応えになると思います。それはそれなりに、自分の考えや経験を考えれば「私は、こうです」と言える言葉はありますが、「それって、自分の考え?」と問われれば「う~ん……。」と考えずにはいられないのです。
でも、幾つになっても、人の一言にこころ煩わらされる未熟な私が、ひとつ確信を持って言えることは、「私は、多くの人との出会いによって、そして、そこで織りなされた経験によって今の自分がある。人生の現在地に立っている私がある」ということです。
「Biotope(ビオトープ)」。私がこの言葉に出会ったのは、2015年頃です。勤めていた組織の「メディア制作関係」や「イベント関係」、また、「ICT関係」(私は、この訳を「インターネットコミュケーションツール」としている)「CI」「DX」などを責任者として担当していた時期です。
今でも、その時に出会った著書からメモした手稿が手元にあります。
情報論的に意味づけすると、キュレーション【Curation】とは「無数の情報の海の中から自分の価値観や世界観に基づいて情報を拾い上げ、そこに新たな意味を与え、そして多くの人と共有すること」こうした人をキュレーターと呼びます。
ビオトープ【Biotope】(生物生息空間)とは「その情報を求める人が存在している場所」そして、エンゲージメント【Engagement】(親密さ・絆・共感等)とは、これも情報関係では「単なるカネとモノの交換ではなく、そこに、なんらかの共感や共鳴が存在する関係になり、そういう持続的関係が新たに生まれてくる」ということです。
参考 佐々木俊尚著「キュレーションの時代」より
第2章
「情報な私」
「Curation」「biotope」そして「Engagement」の「情報」に出会った時から、私は、この「新しい情報」をもとに、さまざまな「理論」を組み立てていきました。また、この「情報」が、私の中に蓄積されてきた「過去の情報」を再編集しにきたのです。
私は、編集工学で有名な松岡正剛氏と映像製作で関わりあい、その出会いをきっかけとして、「ISIS編集学校」に飛び込みました。「守」「破」と、そのコースを進めましたが、職場の管理職に就いた時に忙しくなり、その歩みを止めてしまいました。
しかし、その出会いは、私に「読書の第3カンブリア紀」を迎えさせました。つまり、読書という生命の大爆発が私の脳内で起きたのです。松岡正剛氏自身の著書はもちろん、松岡正剛氏が「千夜千冊」紹介した本を初めとして「縦・横・斜め」の読書テーマの狩猟が始りました。
化学や歴史や地理や人物、もちろん宗教や宇宙、ビジネステーマも縦横無尽に駆け巡り、例えば、キリスト世界の「十字軍」関係でイングランドの獅子心王リチャード1世や大好きなフリードリッヒ2世を読み漁ると、同じ年代の地中海をめぐる「キリスト世界とイスラム世界」から「モンゴル帝国」のチンギス・ハーンから大宰相耶律楚材、そのうち、「塩野七生」をほとんど読みつくしまし。歴史を追い求める嗜好は止まらず、井沢元彦の「逆説の日本史」、そしてついには、J・R・Rトールキンの「指輪物語」にたどり着き、上橋菜穂子の「守り人」を始めとしてすべてを跨ぐまでにいたりました。
読書テーマがわき道にそれたのは数知れずで、今は、カウンセリング講座を受講しながら、カール・ロジャースに眼を開かれ、日本での「エンカウンターグループ」の第一人者と私は考える村上正治氏に心を解放され、次の読書の獲物を狙って涎を垂らしています。
ジョーセフ・キャンベルの「千の顔をもつ英雄」を再び読んだら、一気に20年前の獣の自分に戻った気分で、こころはゆっくりと、そして、虎視眈々と、佐治晴夫氏の「ゆらぎ」を、もう一度味わいたいと揺れ続けているのです。
ちなみに、第1期カンブリア紀は、小学校4年生の時に読んだジュール・ヴェルヌの「海底2万マイル」、そして、第2期は、日大芸術学部映画学科脚本コース時代に出会った、夏目漱石の「こころ」を読んだ歳でした。
第3章
「情報の三間王(さんかんおう)」
『そうだ。日本の「古事記」が口語から文字になった時、稗田阿礼の「語り」を太安万呂が文字に「書き」そして編纂し、それを多くの人が、「読み」伝えてきたことによって、その情報に人が集まり、そこに、新たな人間関係が創り出された』
つまり、『稗田阿礼の「語り部」は、古代と今との「時間」をキュレーション(Curaition)し、太安万呂の編纂による「古事記」という情報は、その情報を求める人が集まる「空間」としてビオトープ(Biotope)を創り出した。そして、「古事記」という情報に集まる人と人の間「人間(じんかん)」に、新たな関係性を生じさせるエンゲージメント(Engagement)と同じではないか。いや、同じというより、「情報」を伝えることに取り巻く「型」は、過去も現在も同じじゃないか』と考え始めたのです。
「情報」には「時間」「空間」「人間(じんかん)」の「3間」が必要だ
『そうだ、自分が学んできた、さまざまな情報を多くの人に伝えるには、「空間」「時間」「人間」を創り出し、その3つが絡み合う編集が必要だ』と確信したのです。
第4章
「慈悲と智慧の結集·編集·発信」
大学時代から、宗教、特に、仏教関係の学びに「縁」があった私には、メディア制作やCI、ICTの責任者であった時から、現代の社会課題に、メディアやICTなどを通して、宗教的情報の核心をフレーズ的に織り込み、情報発信したいとの願いがありました。
そこで、辿り着いたのが、「慈悲と智慧の結集・編集・発信」というテーマです。私は、このフレーズが大好きですし、さまざまな仕事や創作活動の「理論構築と業務遂行の基本形」としてきたのです。だから、このサイトを立ち上げる時にも、そのテーマを声高らかに謳いあげました。
このテーマを簡単に言えば、世の中、何かをする際には、人が持つ「相手のために、という行動」と「ひとりひとりの違った経験知」が必要だということだと考えています。
私は、何をするにしても、まず、個人の行動と経験値を大切しますし、必要としているのです。
その人が持つものを「結集(あつめ)」「編集(まぜる)」「発信(つたえる)」することに、私は最大限の力を注いできました。もちろん、そのために多くの学びと実践を繰り返してきました。そこにも、新たな出会いと新たな経験があり、触れ合った人々の思考が私自信の思考となり、そして、実行力をアップグレードさて続けてきたのは事実です。しかし、「基本はひとつで、対応が無限大」ということは、どの状況に置かれても変わりませんでした。
第5章
「因陀羅網(いんだらもう)に憧れて」
私は、仏教の「華厳経」で説かれる世界観が大好きです。まさしく、私のネットワーク理論を支える思想です。「因陀羅網」(いんだらもう)。
「帝釈天が済む宮殿を飾っている網。その無数の結び目の一つ一つ宝珠があり、それらは互いに映し合って、映じた宝珠が、更にまた、互いに映じ合うとされている」ところからきています。
今、眼の前にあるものは、さまざまな事象を映し出す宝珠であり、それらすべてが繋がっているという世界観。孤立して存在すものは無い、と宣言しているのです。その打ち出す事象を宝珠と捉えるか、無駄や嫌なものとして捉えるか。面白いと思います。
やはり、その分別する知恵を思考と行動にしみ込ませることが大切であると思います。
「無知は罪悪」というフレーズがありますが、大事な考え方だと思います。
「では、その知恵はどこにあるのか」と問われれば、私は、「一人ひとり、すべてのいのちが持っている」と応えます。ましてや、「その知恵は、この世で、その人しか持っていないのです」と断言したいと思います。知恵は、誰かが持っていて、誰からか教えてもらう、という考え方から、「その知恵は、自分のなかにある。まず、理解する、分別できる知恵が自分にあり、その知恵の宝珠を磨き輝かせることが、この世に遍満する智慧を自分に映しだすことができる方法なのだ。それを知ることが智慧である」。それが知恵から智慧に変わることなのだと思ったのです。
第6章
「千の顔をもつ英雄」
そういえば、映画「スター・ウオーズ」監督として有名なジョージ・ルーカスの創造のインスピレーションを与えたと言われるジョーゼフ・キャンベルの著書「千の顔をもつ英雄」には、こんなことが書かれています。
私たちに一つだけわかっていることがある。新たな象徴が可視化されるとき、その象徴は地球上のさまざまな場所で違って見えるということである。生活のありかた、暮らしている人、伝統といった環境的要因が、すべて効果的に組み合わせられなければならない。その結果、さまざまな象徴を通じて誰にでも救済がもたらされることを理解し、見抜くことが必要になる。『ヴェーダ』に次のように書かれている。『真実はひとつ。賢人はそれにたくさんの名前をつけて語る』。一曲の歌があらゆる音階で歌われている。したがって、部分の解決に役立つものをいくら宣伝しても意味がない。それでは逆に脅威になる。
「千の顔をもつ英雄」
あらゆる人との顔に神の顔みることが、人間となるための方法である。
さすが、世界中の神話や英雄伝説を知り尽くした人が行きついた言葉であると思います。
ついでに、キャンベルの、次の文章も紹介したいと思います。
仏陀が瞑想している段階は欠かせない段階であるが、究極の段階ではない。目的地ではない。目的は「見る」ことではなく、自分がいまここに「ある」こと、つまりその本質を理解することである。同時に、世界もその本質をなす。自己の本質と世界の本質―この二つは同じものである。それゆえ、分離・遁世する必要はなくなる。どこを歩きまわろうが、何をしようが、英雄は常に自分の本質と直面する。なぜなら、英雄は完成された目で見ることができるからである。疎外感をまったく感じない。こうして、社会参加が個の中の全てをしる方法であるのと同じく、放浪が英雄を万物の中の自己に導く。この中心点に立つと、利己と利他の問題は消滅する。自己を喪失した個人は、宇宙の意味と同化して再生されるのである。
「千の顔をもつ英雄」
「自分」のために、「自分」によって世界が創られた。アッラーが次のように語っている。『ムハンマドよ、お前がいなければ、私は空を創らなかったであろう』
通過儀礼 Initiation
第7章
情報と共に人がやってくる
私の大好きな友人の本村拓人さんは、かれこれ20年近くのお付き合いをさせていただいています。若かりし頃の私のむちゃぶりなWebサイト製作に付き合ってもらって以来、私は、彼の顔に「神・英雄」を見てきました。英雄というよりは「神話になる物語」を読ませていただいたのです。
インドから帰ってきて、六本木での「デザインで世界を救う」というイベントの仕掛けを語る彼の顔は、神がかっていました。その神が綴る物語を読みたくて、暫く、彼が開催するセミナー等の追っかけをしました。その彼が、青山の自由大学で「ワークショップ」を開催するというので参加したのです。その彼が、私たちに提示したのが「ハイ・ローカル」というテーマです。
本村さんに怒られるかもしれませんが、簡単に説明すると「都会と田舎」というニュアンスでの固定した思考から、「いや、地方にこそ高い文化や可能性があるのでは」という考え方です。そのため、東京ではない地方で文化を創りあげている人たちが講演をしてくれました。凄く、面白かったです。今、それが当たり前のようになっていますが、当時、「ハイ・ローカル」というフレーズにして、その視点でのワークショップは先駆け的だったのです。さすがインドを起点に、世界中を回って、新しい地域興しのテーゼを私たちに指示してくれた本村さんにしかできないテーマだと思いました。
この「テーマ」との出会いが、私の思考を超特急で目的地まで連れて行ってくれたのです。
私も、当時、「街おこし」や「地域のオアシス化」「地域コミュニティ」など、さまざまな学びを追いかけ、多くの人と「縁」を結んできました。しかし、自分の核心的な理論が無いので、もう一歩が踏み出せなかったのです。
しかし、本村さんの「ハイ・ローカル」と「際だつ」という私が考えたフレーズが一致したのです。私は、「街おこし」を学びはじめた頃、独自のフレーズとして「際だつ」の「きわ」を「極」という漢字を使い、「極(きわ)だつ」ことが大事」として友に語っていました。なぜか、地域コミュニティは、これからは地方都市でこそ実現されるべき、と、それを達成できるのは異能な人達とのイメージがあり、「はて・限り」という意味合いを「街おこし」の学びのなかで強く感じていたからです。
第8章
「極に立つことが旅立ち」
「円」の図を頭に浮かべると、円の中心からの「はて・限り」は、円線です。そこの線の点を中心に円を描けば、元の円の一部分の領域も含み、また、別の領域を円に取り込むことができます。そして、その点が、新しい円の中心となります。
今いる場所の中心を目指す生き方と、その円の極に立つ生き方があり、円の極に立つ生き方は、極を中心に既存と新規の領域の中心となる生き方が出来ると考えたのです。「今、自分がいる領域の中心を求める人生もあるが、あえて、その領域の極(きわ)にたち、極だつ、際だつ生き方を選択しよう。そういう人と縁を結んでいこう」と願ったのです。それから、私の眼の前の世界は、大きく開けました。自分の足で一歩踏み出せば、その世界は簡単に表れてくるのです。「極(きわ)だつ」ことは、新たな歩みを始めるには、大切なポイントンだと、今でも考えています。
第9章
「英雄は、一人ではない」
本村さんとのタイミングの良い出会いは、私に、新しい出会いと思考を与えてくれました。
私の周辺情報が、一気にアップグレードされた感じでした。そこから、新たなキャプチャーが、めくられたのです。物語は、現在の私への伏線をちりばめ始めたのです。「時間」「空間」「人間(じんかん)」の「間」が、今までとは全く違った「第4のカンブリア紀」を迎えたのでした。「間」のビックバンを起こしたのです。ここの章は、書き始めると切がないので、これからは、「因陀羅網」や「現在地。私。」のコーナーで紹介していきたいと思っています。
ネットワークという言葉は、なぜか、世の中にありふれ過ぎると私は想っています。Webで何かしらの情報を検索したりすると、ネットワークの言葉にぶつかることが良くあります。しかし、ネットワークという言葉の意味を答えられる人には、なかなかぶつかることは少ないのではないでしょうか。試しに、「これからは、ネットワークが大事だよね」と言っている人がいたら、「ネットワークって何?」と訊いてみてください。
私も、分っていない人間でした。「ネットワーク? それはつながりだよ」ってくらいしか応えられない自分でした。さんざん学んできて、たくさんプレゼン資料も創って、浴びせる程、偉そうに語っていたのに、一言で表せない自分が、そこにはいたのです。
しかし、村山正治氏の「ロジャースをめぐって~臨床を生きる発想と方法」の133pに載っていた「ネットワークという言葉~」に続く説明に、「あっ」という思いがしました。
ネットワークという言葉は、リプナック(Lipnack J)とスタンプス(Stamps J)による「ある目標あるいは価値を共有している人の間で、既存の組織とか所属、組織の所属とか、職業上の立場とか居住する地域とかの範囲や制約をはるかに越えた人間同士のつながりで」と定義している。ネットワークの大切なところは綱というつながりだけでなく、一人ひとりが核になって、情報を発信することが出来るということです。
別に従来のような組織を考える必要はなくて、個人が中心で様々な情報発信ができるところがネットワークの最大の特色だと思っています。個人自身が一人ひとり自分のことを表現したり、自分自身を示すことができるということが最大の魅力と思っています
第10章
「たとえ、1センチでも1ミリでもいいから前に進めるのだ!」
「その通り」って、叫びたくなるくらい、急所を掴まれました。まさか、カウンセリング関係の本で、「ネットワーク理論」を学ぶとは思いませんでした。「因陀羅網」そのものです。
村山先生は、幕末に活躍した坂本竜馬などは稀代のネットワーカーと言えるだろうと述べていますが、「そう考えるよな」と、私は納得しています。
坂本龍馬といえば、その名に触れたのは、梶原一騎の漫画「巨人の星」を眼にした時です。主人公「星飛雄馬」が窮境に立たされる時に語られるのが、坂本龍馬は最後に「溝(ドブ)」に倒れた時も、前向きに倒れ、死を前にして這いずりながらも前進しようとする」。その姿です。私は、その話を、司馬遼太郎の「坂本龍馬」を読むまでは、本当の話であると信じていました。だから、「何なの!」、という感じです。そかし、創作でも、嘘でもなんでも、良いと想えば、そこから学ぶべき精神はあると思いますからね。
私は仕事をする時、行き詰った時には必ず思い描いて、自分のこころに、そして、仲間に言い聞かせてきたフレーズがあります。
「たとえ、1センチでも1ミリでもいいから前に進めるのだ!」
帰還 Return
第11章
「二つで一つ、二つで三つ」
コミュニティ観のひとつの特徴に、「コミュニティとはお互いに一緒に成長していけるような人々のあつまりであるとみなしているところがある」。私は、「一緒に成長していける」、このポイントをこころしておけば問題ないと思っています。いろいろな情報が繋がって総和となり、また、一つ一つの情報が個々に自己主張していると感じています。そこに、情報価値の上下、高低などがなくなる「情報の因陀羅網」と「人間の因陀羅網」が、眼前に浮かび上がってきたのです。それをくぐり抜けた時、私の思考に、ひとつのフレーズが広がりました。
「二つで一つ、二つで三つ」
「娑婆世界」と呼ばれるこの世は、二項対立が一つにも三つにもなる世界なのだと思いました。高低や長短など、二律背反した単語が合わさると、第3の違った意味合いを浮かび上がらせてくるのです。
ロシア語通訳で有名だった米原万里さんの著作を読むと、こうした日本語を通訳する言語は無くて、日本独特の言葉だそうです。そう、日本人は、それが得意なのです。日本人の遺伝子の一つなのかもしれませんね。
松岡正剛氏風に言えば「meme(文化的遺伝子)」ですかね。「meme」を持つ、日本人の私は、違いや差の間にこそ、第3の世界はあるのだと気が付いたのです。大好きな「カオスの世界」の感覚にも似ています。私には、仏教の「自己他己」の世界、そして、道元禅師の「峰の色 谷の響きも 皆ながら 吾が釈迦牟尼の 声と姿と」の歌が聞こえてきたのです。
第12章
「性(しょう)があるさ!」
「3間」の間に基本的に必要なのは、まず、「間における関係性」であり、それに価値づけするのは、「関係をつなぐものの個がもつ特性」、つまり、「性(しょう)」ではないかと思ったのです。私が出会ってこころと思考を揺さぶられた人たちは、皆、持っていたのです。
「個性という性・習慣という性」、その人しか持ちえない「性」をさらけ出していたのです。
石川県の小松市に近い滝ケ原ファームの小川諒さんは、さらけだしの第一人者だと思います。自由大学の学びで講師だった小川さんに会った瞬間、私は、滝ケ原ファームに行くことを決めました。そして、訪ねた時、私は、諒さんのさらりとした人間性に取り込まれてしまったのです。
まず、自分の過去を一切後悔していない。次に、その過去を物語として語りかけてくれる。これって人とのコミュニケーションを図るには、大事なことだと思っています。自分の人生を愚痴や自慢ではなく、聞く相手をワクワクさせる物語にして話せるって素敵だなと思いませんか。そして、物語の結末は一切考えていない。結末は、「縁」のみぞ知る、という感じです。
いつの間にか、その結末を一緒に見たい、創りあげていきたいと思いました。その涼さんの思考が習慣となり、その習慣が「性」となっていく。その「性」は、それこそが宇宙の真理に繋がるものであり、この世のすべての「いのち」が持っているものなのだと思います……。
しかし、ここが、なかなかの曲者なのです。天台宗の本覚思想、つまり、「衆生は誰でもが仏になれる。元から具わっている、悟っている」ということですが、簡単に信じられませんよね。「私が宇宙の真理と同じ」だなんて。私は、「親鸞」も「道元」も大好きですが、親鸞の悩みに共感しています。
仏教では、これを証明する理論・法則が説かれています。「十如是」の法門です。根本仏教ではよく、「○○の法門」という言葉を使います。つまり、法・真理に至る門、この門を通れば、法・真理に辿り着けますよ、という意味だと、私は、解釈しています。
是非、インターネットで「十如是」にアクセスして欲しいと願います。私は、「仏教とは、どういう教えですか」と訊かれたら、「縁によって起る、という教えです」と、最初に答えます。しかし、まだ、本当に身についていません。奥さんの一言一言に怒りが沸き起こりそうになる無知な私です。「無知は、欲が深いからだ」と後輩に言われました。
やはり、無知には、智慧が必要だと思っています。
第13章
「ミネルバの梟」
「ミネルバの梟(ふくろう)」では、一人ひとりがもつ、智慧を分かち合いたいと願っています。ミネルバは、ギリシャ神話で女神のシンボルとも言われるアテナのことを指し、ローマ神話では、詩や知恵や工芸の女神として登場し、彼女が連れている梟は、智慧の象徴といわれています。この世は、智慧に溢れています。一人ひとりが持つ学びと経験から得た智慧を皆さんと共に、「因陀羅網」のように映し出し合いたいと願っています。
ある組織の長になる者の人事管理上で、よく「適材適所」とういう言葉が使われます。
私も職場の長(管理職)になった時があります。「人を育成する」とは、長期戦略がともないます。そう簡単に、また、短時間で人が育つとは思えません。しかし、さまざまな先哲の方の体験を聞くと、「あの一言で私の人生が変わったのです」とか「あの先輩のお陰で」とか、よく聞きます。管理職の人材育成とは何か。
私の手元に飛び込んできた本がありました。映像カメラマン時代に好きだった用語のように、私の思考に「フレームイン」してきたのです。
それは、「経営者の学び」でテキストとして紹介された、安岡正篤氏の「為政三部書」という本です。簡単に説明すると、中国の宋末期の時代に生まれた名臣「張養浩(ちょうようこう)」という人が書き表した本です。これを、戦中の満州国にいた安岡正篤氏が注訳した本が「為政三部書」なのです。私も、それをPDFでいただいて手元にありますが、やはり、安岡先生のご子息である安岡正泰氏の『「為政三部書」に学ぶ~出処進退の人間学~』を読みました。非常に分かりやすい本なので、起業家や管理職等の方には、是非、読んで欲しいと思います。
もともと政治家や官僚に対する忠告をまとめたものですから、今、読んでも十分に手ごたえがある内容となっております。その三部書のひとつ「廟堂忠告」の、第一の「修身(身を修ること)」の次に、第二として「用賢(賢者を用ふること)」に、私たちが組織やネットワークを創発する際の、大事なポイントが書かれていると思っています。
「もし、自分に不得手があれば自分に代わるべき賢人を、自分が不明なことは熟知の賢人を、自分が直言できなければ直言できる賢人を推挙して任用すればよい。このように適材適所の人事を行えば、賢人達は与えられた責務に能力を発揮して治政の効果はあがり宰相自身の政治評価が高められることになるのであろう。たった一人でも多くの賢人の能力を兼ねようとするのは、大聖人、大賢人でもできないことである」
では、その賢人がどうしたら周りに集まるのか。
「誠心誠意尽くし、公平で私心のない広い心をもって臨む」ことであると語っています。なるほど、だから第一に「修養」がくる「章立て」になっているのかと納得しています。ところで次の章のタイトルは何だと考えますか。「修養」「賢用」の次です。昔の人は、本当に章立ての編集が素晴らしいと思いますよね。答えは、「重民(民を重んずること)」です。
第14章
「社会課題解決のためのBiotope One」
私は、決して評価が欲しくて、この「biotope one」を立ち上げたわけではありません。世界には、社会課題ごとに素晴らしい賢人がいることを、多くの人に知ってもらいたいだけなのです。あなたも、その賢人なのだと気づいてほしいと願っているのです。私だけでは、これだけ多様な世界に生息する「いのち」に応えることができません。何度も語りますが、この世界は、「因陀羅網」の世界だと信じています。だから、一人ひとりが、必ず、自分自身を光り輝かせ、相手の光をも輝かせる「宝珠」を持っていることを、そして、その「宝珠」を磨くことの大切さを、あなたひとりに伝えたいのです。そのことが「重民」につながるのだと思っているからなのです。
伝えるための情報の発信の在り方を考えると、なるほど、この物語の成り立ちは面白いと思ったのが、皆さんご存じのアラビアンナイト「千夜一夜物語」です。
昔々、サーサン朝にシャフリヤールという王がいた(物語上の架空の人物)。王はインドも中国も治めていた。ある時、王は妻の不貞を知り、妻と相手の奴隷たちの首をはねて殺した。
女性不信となった王は、街の生娘を呼び、一夜を過ごしては、翌朝には首をはねた。こうして街から次々と若い女性がいなくなっていった。王の側近の大臣は困り果てたが、その大臣の娘シェヘラザードが名乗り出て、これを止めるため、王の元に嫁ぎ妻となった。明日をもしれぬ中、シェヘラザードは命がけで、毎夜、王に興味深い物語を語る。話が佳境に入った所で「続きは、また明日」そして「明日はもっと面白い」と話を打ち切る。シェヘラザードの傍らには、妹のドュンヤザードがいて、横から「話がおもしろい」と盛り上げ役を演じる。姉妹による作戦によって、王は話の続きが聞きたくてシェヘラザードを生かし続けて、ついにシェヘラザードは王の悪習を止めさせる。
「wikipedia」より
私は、今までの時代は、マスコミュニケーションに例えられるように、膨大な量の情報が、多様なメディアによって、一律的な思考を持つ大量の人間を作りだすために発信されてきたと時代だと捉えています。果たして、それは、どういう人間を作り出してきたのと考えると悲しい気持ちになります。しかし、「人は、他人の情報で作られてしまう」というのは事実に近いと思います。だから、シェヘラザードが重要な役割を果たす「千夜一夜物語」が好きなのです。
「少しづつ、結末に向かってつづく物語を、一人のために語り続ける」
第15章
「ネットワークを繋ぐのは、弱い絆」
ここから多くの示唆を得られると感じています。「強い絆」より「弱い絆」での情報伝達の在り方が、これからの時代を変えていくと思っています。
「耳元でのささやきは、グサッと心に届きます」
メディア制作を担ってきた人間としては、考えてしまう重要なポイントであると考えています。
今、新たな「情報発信」の仕組みを創りあげていく願いを前に、私が確信してきた「3間」をWeb上で創り出し、そして、「慈悲と智慧の結集・編集・発信」を果たし、人間本来持っている「人のため、社会のため」の願いを実現するために、この「Biotope One」を創発しました。
今も、日々、人との出会い、智慧との出会いを楽しみにしています。
過日、あるzoomによる「東洋哲学」の勉強会で、素敵な情報に触れることができました。
その勉強会の先生は、facebookで、ほぼ毎日、空の写真をUPしているのです。私は「ふ~ん」という感じて、観るたびごとに、直ぐ、スワイプしていましたが、ある時、「なぜ、空の写真をUPしてるのですか」という質問への先生の答えから、私の「直スワイプ」は止まりました。じっくりと写真を観て、先生の撮影している時の想いに、こころを寄せるようになったからです。
第16章
『青天白日』と『俯仰天地に愧じず』
私は、毎日の空は、空にあるのではなく、自分自身の心にあるのだと思っています。佐藤一斉の「言志録」には、『心静かに方(まさ)に能(よ)く白日(はくじつ)を知り、眼(まなこ)明かにして始めて青天を識(し)るを会(え)す。とは此(こ)れ程伯(ていはく)氏の句なり。青天白日は、常に我(わ)れに在り。宜(よろ)しく之(こ)れを座右(ざゆう)に掲げ、以(もっ)て警戒と為(な)すべし』とあります。
これは「心が静かであれば、よく太陽の恩恵を知り、眼が明らかであれば、初めて真っ青に澄み切った空の広大さを知ることができる。このように青天白日とは常に自分の中にあって、外にあるのではない。この句を座右に掲げて、自戒の言葉とすればよい」ということです。
あらためて、私は多くの人の「縁」よって支えられていると感じます。本当に、皆さま、ありがとうございます。これからは、私も人々の支えになれる働きをしていきます、と毎日の空と自分のこころに思いを馳せたいと願っています。
「青天白日」よいフレーズです。
過去、私が先生と仰ぐ方から、次の言葉を教えていただきました。同じような意義だと思い返しました。
「俯仰天地に愧じず」
省みて、自分の心や行動に少しもはじることがない。公明正大で心にやましいところがない。
いろいろと自分の想いを語ってきましたが、最後にもう一言。
「Biotope One」の「One」は、仏教の「法華経」で説かれている「一仏乗」という世界観から導き出しました。「世界はひとつ。みな、同じ乗り物に乗り合わせている同乗者」。地球は、過去から未来に向けて生まれてきた、そして生まれてくる「いのち」は、「Biotope」が表す「その情報を求める人が存在している場所」である。
その「情報」とはなにか?皆さんの智慧をWeb上に「結集」し、web上で「編集」し、そして、Webから「発信」したいと願っています。
そして、いつかは、リアルな「空間」「時間」に人が集まれる「人間」を提供し、松岡正剛氏の語る「インタースコア」的な「智慧と慈悲」の編集を、皆さんと共にリアルに実現させたいと願っています。
終わりに物語はつづく
私の好きなサミュエル·ウルマンの「青春」という詩を載せて、私の心意気としたいと思います。なお、日本語訳はいろいろな方がしておりますが、岡田義雄さの訳詩にしました。安岡正篤氏の訳では、仰々しいですからね。
青春とは人生の或る期間を言うのではなく、心の様相をいうのだ。 優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、 怯懦(きょうだ)を却(しりぞ)ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心、 こういう様相を青春と言うのだ。 年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。 歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失う時に精神はしぼむ。 苦悶や、孤疑(こぎ)や、不安、恐怖、失望、 こう言うものこそ恰(あたか)も長年月の如く人を老いさせ、 精気ある魂をも芥(あくた)に帰せしめてしまう。 年は七十であろうと十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。 いわく 驚異への愛慕心、空にきらめく星辰(せいしん)、 その輝きにも似たる事物や思想に対する欽仰(きんぎょう)、 事に処する剛毅な挑戦、小児の如く求めてやまぬ探求心、人生への歓喜と興味。 人は信念と共に若く、疑惑と共に老ゆる。 人は自信と共に若く、恐怖と共に老ゆる。 希望ある限り若く、失望と共に老い朽ちる。 大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、 そして偉大の霊感を受ける限り、人の若さは失われない。 これらの霊感が絶え。悲歎の白雪が人の心の奥までも蔽(おお)いつくし、 皮肉の厚氷がこれを固くとざすに至れば、この時にこそ人は全くに老いて、 神の憐れみを乞うるほかはなくなる。
欠けたり割れたりした器を、漆を使って修復する伝統的な技法、それが金継ぎです。「金継ぎ」と言いますが、実はほぼ漆で修復していて、金は最後の仕上げのときにのみ使います。